私がパースにいる理由

西オーストラリア・パース在住の主婦、Chiekoです。「パースで手作りざんまい」というブログを立ち上げました。パースでの生活についてと、海外生活の中で、家族のために、自分のために、行っているさまざまな『手作り』を、料理を中心に記録していこうと思って始めました。

その前に、今回は私達家族がなぜパースに来たか、を、ほんの少しだけ書こうと思います。
それは、私がここで何を作り出し、どんな物事に価値を置いているか、ということと、根底でつながっていると思うから・・・書いておきたいと思います。

 

はじまり

 

私達家族は、2011年の東日本大震災・福島原発事故が起きるまでは、埼玉県三郷市に住んでいました。

大きな集合住宅の一角、70m2のこじんまりした部屋に、家族で住んでいました。
夫はIT技術者として働く会社員。
私は専業主婦。
長女は小学校3年生、そして息子が1歳半くらい。
何の変哲もない日常。
私達家族は、平凡に暮らしていました。
子育てや仕事に追われながらも、時には夫婦で音楽を楽しみ、猫の額ほどのベランダで子ども達とガーデニングを楽しみ、料理やハンドメイドを楽しんでいました。

2011年の3月11日、午後2時46分。

私は、自宅マンションの一室で、当時1歳5ヶ月の息子の世話をしながら、小学3年生だった娘の帰宅を待っていました。
突然の大きな地震。
息子を慌てて抱きかかえ、とりあえずダイニングテーブルの下にもぐりこみました。
金魚の水槽の水がこぼれる。テレビが台から落ちる。向こうの部屋で大きな音がする。。。

夫とはすぐに携帯がつながりました。状況確認をして電話を切りました。それ以降、夫との電話はつながらなくなりました。
一番心配したのは、娘がちょうど下校する時間だということ。今どこにいるだろう・・・息子を連れて迎えに行くべきかどうか、迷いました。
幸い、程なくして娘は無事に帰ってきました。

交通機関は止まっているようでした。夫はその日の深夜に、なんとか帰り着くことができました。

大きな地震でした。近所のスーパーの商品棚が、しばらくの間空っぽだったり、計画停電で真っ暗な中夜を過ごしたり、生まれて初めてのことはいくつかありました。
けれど、私達家族の生活はすぐに元に戻ることができました。
そして、津波で大変な被害に会った地域のことや、原発事故で避難や屋内退避を余儀なくされた地域の人々のことを思っていました。
その時は、私達自身の人生がこれほど方向転換するとは、夢にも思っていなかったのです。

 

それまで、原発や放射能について、何の知識もなかった自分・・・「北関東のほうれん草から基準を超える放射性ヨウ素が検出され、出荷停止になった」というニュースが流れる一方で、同じく北関東のみず菜や小松菜が普通にスーパーで売られていることに、何となく釈然としませんでした。
金町浄水場から基準を超えるヨウ素が検出されたというニュースを見て、そのすぐ上流にある三郷の浄水場はどうなのか、その水を子ども達に飲ませてダイジョウブなのか・・・疑問に思いました。

自分の住む街が原発事故の影響をどれだけ受けているのか、具体的な状況を知ることができないまま、原発事故から1ヶ月ほど経って、春休みが終わって、まったく通常通りに学校が始まりました。
春休み中は、私と子ども達は、兵庫県明石市にある夫の実家に滞在させてもらっていましたが、新学期に合わせて三郷に戻りました。
新年度の学校生活の中では、原発事故の放射能については特別な注意喚起も行事の変更も、何もありませんでした。
本当によいのか、なんとなく心配になり、ネットで調べているうちに、千葉の東葛地域が通常よりも放射線量が高い、という情報を見て、近くにある三郷はどうなのか、ふと気になり出しました。

 

その後、本当に多くの方々の協力と行動のおかげで、当時の三郷市の汚染状況(放射線量・土壌汚染)を詳しく調べることができました。半年間放射線量の調査や市との交渉をやった後、「三郷に住み続けることは、少なくとも子ども達にとってリスクが高いのではないだろうか・・・?」と夫と私は判断し、当時妹が住んでいた東京西部へ急きょ避難しました。
その状況で西日本に移住先を探し、半年後に香川県高松市に移り住みました。

夫は半年後の退職をめざし、仕事を片付けるためと、マンションを売却するために、三郷に再び戻って一人暮らし。
私は子ども二人と高松での生活。
そんな二重生活が、半年続きました。

 

三郷で半年間逆単身赴任していた夫は、持病のアレルギーがひどく悪化していました。

なんとか仕事を終え、15年勤めた会社を退職し、香川へ合流してきた時は、本当に体調が悪く、ぼろぼろの状態でした。
夫が無事に香川に来られた時は、心底ホッとしました。

 

夫と二人、日本を出ようと決めたわけ

 

私達夫婦は、三郷のあの家で、子ども達を産み育て、大きくはないけれどこまごまとした、たくさんのものを築いてきました。
目に見えるものだけではない・・・近所の人達との関係や、コミュニティの中での自分達の位置、友達やお世話になった人々とのつながり、子ども達の環境、暮らしの知恵、、、本当に、ほんとうにたくさんのもの。

この十数年で築いてきた、自分たちの「暮らし」というものを、まるでちゃぶ台返しのように全部ひっくり返してしまった。
何より夫は、仕事を辞めたのです。とりあえず確実に得られる収入源を失うということは、私達夫婦にとって大きなプレッシャーでした。
ここからまた新たな生活を始めることは、何にしても、容易じゃない、と思いました。

 

香川での暮らしは、私自身は気にいっていました。
何より、四国の自然の美しさには何度も心を打たれました。一言では言い表せない・・・あの、海と山と島と盆地、すべてが優しくダイナミックに調和している様は。
原発事故以来、全ての風景が色彩を失ったように感じていたけれど、この自然の美しさこそが、私の心をなぐさめてくれた。
そして、バラエティに富んだ農作物。歴史にゆかりのある名所がたくさんある。
独自のローカル文化の発信に力を入れているところも魅力的だったし、値段も手頃でおいしい地元のカフェや飲食店を発掘する楽しみもありました。

shodoshima

小豆島、寒霞渓の頂上から。映画『八日目の蝉』では、この景色が印象的にフィーチャーされていました。

けれど同時に、これからどうやって生きて行こうか、と夫婦で話し合った中で、今日本がどんな状況にあるのか、ということは、どうしても考えないわけにはいきませんでした。

原発事故からそれまでを振り返ってみると・・・

事故当時の内閣のSPEEDI情報の隠ぺいが明らかになりました。
住民の反対行動があったにも関わらず、北九州や大阪では膨大な量の被災地のガレキ焼却が行なわれました。
内閣からは「収束宣言」がなされたものの、福島原発からは汚染水が漏れ続けて海へ流出していたし、放射性物質は大気からも出続けていました(今現在も)。
2012年夏に大飯原発の再稼働が発表された時は、反対のために、数万人~十数万人とも言われる人々が首相官邸前に集まり抗議しましたが、結局大飯原発は再稼働されました(現在は定期点検のため稼働停止中)。

私達はやっぱり、原発事故を通して私達に突き付けられた問題が、「解決した」と思うことはできなかった・・・。

福島原発事故によって、どれだけの人がどれだけの健康被害を引き起こすか、今は私自身も誰にもわからないとしても、

『原発事故は決してあってはならないことだ』
『子どもが健康に育っていけるように、国や社会が守らなければならない』

という、原発事故前は当たり前だった(と私がずっと信じてきた)価値観が、あの311を境に崩れ去ってしまったこと・・・
どうしてそうなってしまったのか?どうしてなのか?
考えても、簡単にはわかりませんでした。

この問題は、考えて行くと、私の日本人としての、親としての、今までの人生って、なんだったのだろう?という問いに行きついてしまいました。
本当にゆるぎない価値観って、なんなのだろうか?

私はそれが知りたかったし、日本で今起きている流れというものを、外から改めて見てみたい、そうでなければ自分の感じていることが正しいのか間違っているのかもわからない、と思いました。

新しい生活を再構築することが、なんにしても簡単ではないのなら・・・

どうせ苦労するなら、妥協のない道を選んで苦労したい!

夫と二人でそういう結論に達し、海外へ行くにはどんな道があるのか、考え始めました。
ある海外移住・留学エージェントを知り、コンタクトを取ったのが2012年の12月。
行き先は、南半球の英語圏ということで、オーストラリア。ビザの条件上、パースを選びました。

夫は英語の猛勉強を始め、1月末には初めてのIELTS試験を受けました。

香川へ移住するために処分した三郷のマンションのお金と、夫の退職金と、貯金と、その他お金に換えられるものはすべて変えて・・・

2013年4月。
英語もしゃべれない、留学経験もない私達夫婦は、40歳にして、まったく英語を知らない2人の子どもを連れて、来たこともないパースへやってきたのです!

 

私にとって、このブログは。

それからおよそ1年半。
それはそれは、色んなことがありました。
この1年半の間にあったことは、とても一言では書き切れないわけですが(笑)。

素晴らしいことも、ツラくてへこむことも、たくさんありましたが、パースに来れたことは自分の人生にとって本当によい機会だったと思っています。
日本を離れてみて、本当に色んなことがわかりました。
私はこの年齢になっても、まだまだ世の中にはこんなに学ぶことがあると知りました。
新しい世界に触れることは、いくつになってもエキサイティングであり、人を成長させてくれるものだと。

それまで海外の人と触れ合う機会がなかった私にとっては、英語の環境で暮らすために、まず英語を学ばなければなりませんでした。40歳になって、日本語以外の言語をこんなに真剣に学ぶことになろうとは・・・それがまず第一課題でした。

しかし、海外で学ぶということは、言葉を学ぶことだけじゃないんだ、ということもまた、わかりました。
社会の違い、価値観の違い、というものは、理念だけの話ではなく、実生活のこまごまとしたところに影響を及ぼします。
私自身は、こちらの学校で学生として学んだことはないけれど、子ども達の学校生活を通じて、あるいは日々の買い物、家事のやり方、家のしくみ、隣人との会話、食生活・・・そうしたものから、今まで私が長年生きてきた『日本との違い』をたくさん学びました。

私が今まで当たり前だと信じてきたものは、実は、当たり前ではなかったんだ。

そんなこと、「当たり前」に聞こえるかもしれないけれど、自分の中の常識が、毎日の生活の中で一つ一つ覆されていく、、、「世界は広い」ということを、本当に理解したように思います。
あー、もっと若いうちに、海外へ行ってみればよかった。
と、何度も思いましたが、それでもこの歳で学ぶ機会を得られた私は、ラッキーだ、とも思いました。

これまで、毎日をやりくりすることで精いっぱいの生活を送ってきましたが、そんなパースでの生活の中でわかったことを、自分なりの言葉で表現してみたいと思い、そんな場を持ちたいと、ずっと思っていました。
このブログは、私にとって一つの挑戦です。

このブログを始めるにあたり、ここへたどり着くまでに出会ったたくさんの人へ、そして、今パースで私達家族を支えてくれている人達、日本から私達のパース生活を支えてくれている人達へ。心からお礼を言いたいです。本当にありがとうございます。
今私達家族がここにいられるのは、こうした皆さんのおかげです。

そして、大切な私の家族。
いつも、いつもありがとう。

そして、幸いにもこのブログにたどり着いてくれたみなさんに、私がここに来られたことで得られたものを、少しでも伝えられたらうれしいです。

そんな気持ちをこめて、これから書いていきます。

今も、子育てに英語の勉強に日々の家事にアップアップしている毎日なので、更新はゆっくりになるかと思いますが、気長にお付き合いいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

lancelin

2013年6月。Perthから約200km北にあるLancelinの海岸で。夕暮れのインド洋を家族で眺めました。

 

 


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Chieko
2013年より、西オーストラリア・パース在住。
7歳の息子、15歳の娘、夫と4人暮らし。

オーストラリアをテーマにしたライター。得意分野は、食、生活、子育てに関すること、子連れでの観光・旅行(キャンプ)。
趣味は料理・ガーデニング・DIY・音楽。

オーストラリア生活で私が学んできた英語のことと、大人の英語勉強法についてつづるブログ「話す英語。暮らす英語」も更新中。

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