4月半ばのスクールホリデー期間は、忙しくてちょっと更新ができませんでした。。。先週から西オーストラリアの学校ではターム2が始まり、ようやく私も平常運転に戻ってきたところです。
その間、熊本を中心とする九州地方では、2度の大きな地震により、多くの被害がありました。
遠くの地から、ただただ心配することしかできませんでした・・・。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、被災されたみなさまへ、心よりお見舞い申し上げます。
いまだに食料など、最低限の必需品にすら困窮している方もいらっしゃるようで、そんな事態が一刻も早く改善されるよう祈るばかりです。
今回は、スクールホリデー中に家族で行った、キャンプの話を記録しておこうと思います。
2回連続で、今回は前半。
条件は、雨が降らない場所
前々から、特に息子はスクールホリデーにキャンプに行くのを楽しみにしていたので、週末を利用し、夫に1日休みを取ってもらって、2泊3日で家族キャンプに行きました。
今回は、「どこに行くか?」で、ギリギリまで揉めました。
最初は、パースの南の方へ行こうと思っていました。
南側の方が、ちょこちょこと町があるし、見どころもあるし、距離的にも行きやすい場所が多い。
地図を眺めながら、色々と考えていたのですが・・・ちょうどその週末、パース周辺から南側一帯にかけて、雨や嵐、時には雷も?なんて予報。
さすがにテントでそれは、ツラい。
屋外で調理や食事ができないと、キャンプは全然楽しくない。
雨が降らない場所はないかなぁ・・・
と探したところ、ジェラルトン(Geraldton)よりもさらに北にいけば、天気は持ちそうでした。
というわけで、今回はパースからおよそ480km北にある、ノーザンプトン(Northampton)に行くことにしました。
ノーザンプトン。イギリスにも同じ地名がありますが、こっちのノーザンプトンは、日本語で検索しても出てこないくらい、マイナーな町。
「何があるんだろうね~?」
「何もないんじゃない~?」
と、夫と二人で言いながら、今回はのんびりキャンプすることを第一目的に、行ってみることにしました。
ノーザンプトンは、西オーストラリアの中西部に位置する、各種産業を担う重要な港湾都市であるジェラルトン(Geraldton)、そして、有名な国立公園があり景勝地として有名なカルバリ(Kalbarri)、この二つの町の中間にあります。
キャンプ自体はだいぶ慣れたので、準備は気軽に済みました。
前日に食料を買い込み、土曜日の朝荷物を車に積み込み、さっさと出発!
北へ向かう道は、割と退屈です。
大きな町と言えば、ジェラルトンまで行かなければなりません。
そのジェラルトンさえ、パースから約420km。
もちろん、その間にも点々と町はありますが、ガソリンスタンドが1軒と、コンビニくらいの小さなスーパーが1軒と、ちょっとした飲食店が1,2軒・・・という感じです。しかも、日が暮れる前に閉店しちゃうような。
食事や買い物に立ち寄るとしても、大した物はゲットできないし、気分転換に楽しめるスポットもこれと言ってありません。
食べ物だけは、出発の前にしっかり確保する必要があります。
・・・あとは、とにかく、北へひた走る!
ノーザンプトンに到着したのは、土曜日の午後4時半くらいでした。
ノーザンプトンって何があるんだろう?
うっすら覚えているのは、一昨年の夏にモンキーマイアに行った時、通りかかったということ。
いや、正直、記憶に残ってないくらい、何もなかったところ。
(過去記事:モンキーマイアのキャンプ旅行の記録。1~4まであります)
前もってネットで調べたところ、マイニング(採掘)で栄えた古い町であり、文化遺産に指定された古い建物がいくつかある、ということはわかりました。しかし、それ以上の情報が、英文でさえネットにも載っていない。
まあ、到着したら地元のビジターセンターに行ってみよう。何かわかるかもしれないし。
なーんて思って、ビジターセンターを訪ねてみたら・・・閉まってる。
土曜日は昼12時で閉館。しかも、翌日の日曜日は終日閉館とのこと。
・・・あらら。ビジターセンターが週末に閉まっちゃうくらい、何もないとこってことか~(笑)。
さて、この『何もない』ノーザンプトンで、私達が見たものは・・・?
開拓とマイニングの小さな町で私達が見たもの
ノーザンプトンは、イギリスの入植者によって作られた、西オーストラリアの中でも古い町の一つだそうです。
この地域では、19世紀半ばに、鉛や銅の鉱石が発見されたことをきっかけに、最初の入植者(移民)がやってきて、マイニング(採掘業)を始めました。最初はイギリスから流された受刑者が採掘作業に当たったそうですが、後には熟練の技術者が呼ばれたそうです。
ノーザンプトンの採掘場は、オーストラリアで最初の鉛の採掘場だと言われています。その後、鉛と銅のマイニングは、1860~70年代を中心に、ノーザンプトンの主要な産業となっていきました。
1879年には、ジェラルトンとノーザンプトンを結ぶ鉄道が完成しました。この鉄道は、西オーストラリア州政府によって建設された、最初の公営の鉄道なんだそうです。
鉄道が開通すると、鉛と銅の採掘産業はますます盛んになり、農業や牧畜業(羊)も盛んになりました。
ノーザンプトンの町は、マイニングが盛り上がっていくさなか、1864年に発足し、当初はずばり、『The Mines』という名前だったそうです。
その後、1871年に改めて、ノーザンプトン(Northampton)と名付けられました。
鉛の採掘は、20世紀半ばまで続いたそうですが、その後終焉を迎えました。
現在の主産業は、農業や漁業だそうです。
そのような歴史を持った、丘の合間にある小さな町、ノーザンプトン。
1993年には、オーストラリアのナショナル・トラスト(歴史や自然の景勝地を守る活動をしている団体)により、歴史的・文化的遺産の町として認定されたそうです。
私達は、町の真ん中にあるキャンプサイトに2泊しながら、いくつかの観光スポットをゆっくりと見て回りました。
以下に、紹介します。訪れた順番の通りではありません。
◆Chiverton House Museum
ノーザンプトンといえば、これが一番の見どころになるかも・・・。
チバートン・ハウス(Chiverton House)は、元々は、元受刑者が1865~1875年の間に建てた家で、その後キャプテン・サムエル・ミッチェルという人が購入しました。
キャプテン・サムエル・ミッチェルさんは、ウェールズ(イギリス)からマイニングのマネージャー(運営・管理)をするために、呼び寄せられ、やってきました。そして彼はここで、家族と暮らしたんですね。
暮らしながら、この家を増改築していったそうです。
当時の暮らしの中で、人々が使用した品々や、膨大な数の写真などが、建物の中にところ狭しと展示されています。
キャプテン・サムエル・ミッチェルさんは、マイニングのマネジャーだけでなく、ノーザンプトンの治安判事(a Justice of the Peace)を務めるなど、地元で重要な人物として活躍していたそうです。
当時、イギリスから入植者としてやってきて、マイニングで成功をおさめた・・・ということでしょうね。
私には、結構裕福な暮らしぶりだったように見えました。
このミュージアムを案内してくれた係のおばあさんは、キャプテン・サムエル・ミッチェルさんのご子孫だそうです(!)。
お孫さん?ひ孫さん?か、詳しくは忘れましたが、展示を見ながら色んな話をしてくれました。
ミッチェルさんは、最初の奥さんとの間に7人の子どもをもうけ、その後、次の奥さんとの間には10人の子どもをもうけた、とか。
ひえーすごい、子だくさん!!
展示には、ベビーベッドや子ども用の家具、結婚式のドレスなどもありました。
また、おばあさんが教えてくれたのですが、キャプテン・サムエル・ミッチェルさんの孫の一人(女性)は、後に西オーストラリア州の19代目首相となった人(Sir David Brand)と結婚しました。
パースからジェラルトンへ向かうブランドハイウェイ(Brand Hwy)は、このブランド首相に由来しているんだって。
へー!
また、屋外には、古い人力で動いていた農作業の車や機械なども展示されており、息子はこちらの方が面白かったよう。
↑これは、マイニングに使われた道具。真ん中は、作業員が鉱山の穴の中に降りて行く時に使われた、エレベーターのかご。
こうした一つ一つを、おばあさんは丁寧に説明してくれました。
・・・きっと、人が来ないから、ヒマ だったんでしょうね~。
でも私達は、おかげで思いがけない話が色々と聞けて、面白かったですが。
夫は、「カンガルーはしっぽがおいしいのよ。若い雌が一番おいしいわね、肉が柔らかくて~」とおばあさんに教えてもらったことが、最も印象に残っているそうです(笑)。
右側の家屋が、チバートン・ハウスの建物。
結構こじんまりしています。
キャプテン・サムエル・ミッチェルさんは1912年に亡くなり、その後1945年まで、彼の遺族が住んでいたそうです。
その後、2人の住人が住んだそうですが、ノーザンプトンの自治体がその建物の歴史的価値を認め、1968年に購入。
1969年に、ミュージアムとしてオープンしたそうです。
開館:月水金土日 10:00-12:00, 14:00-16:00 他の時間に見学したい場合は、 (08) 9934 1215まで連絡を。
料金:大人$3、小人$0.5
◆the Church of Our Lady in Ara Coeli
私は建築のことがよくわからないのですが、有名な建築家である司教Hawesにより、1936年に建設された教会だそうです。
ロマンティック・ネオゴシック、という様式だそうです。
◆the Convent of the Sacred Heart
前述のthe Church of Our Lady in Ara Coeliの隣にある建物。こちらも、司教Hawesにより1919年に建てられたもので、今はBed ‘n’ Breakfastのアコモデーションとして使われているよう。
上記2つの建物は、西オーストラリア州の文化遺産(State Heritage)として登録されているそうです。
◆Gwalla Railway Station
ノーザンプトンでは、西オーストラリア州初の、公営の鉄道が建設されましたが、1879年に開業したその鉄道の駅の跡地が、こちら。
この駅は、1913年まで使用されたそうです。
歴史的に大切な地であることは認識しつつ・・・
でも、、、何もない(笑)。
ところどころに看板が立っており、わずかに痕跡が残っているだけ。
でもこういうアヤシイ雰囲気、好きですけどね。
※見学自由
◆Mary Street Railway Station
先のGwallaステーションが30年ほど使用された後、1913年に新しくできた駅が、このMary Streetステーション。
鉄道が、ノーザンプトンのさらに北まで拡張されたのに伴って作られました。
この鉄道は、1957まで使われましたが、道路事情が良くなって物流の中心がトラックやロードトレイン(荷台をいくつか連結した大きなトラック)に移行していったため、鉄道は使われなくなったそうです。
この駅の跡地には、過去に使われていた古い客車や貨車が展示されており、自由に見て回ることができました。
ノーザンプトンの鉄道に関する展示は、現在はこちらに集約されているようです。
石造りの駅舎。
古い客車。中には入れませんでしたが・・・
中には↓こんな人達が。ちょっとコワイんですけど~(笑)
※見学自由。希望者は、(08)9934 1118に電話すると、ガイドさんが来てくれるらしい。
◆Gwalla Church 廃墟
Joseph Lucas Horrocksによって1864年に建てられた教会の跡地です。
ホロックスさんは受刑者として西オーストラリアにやってきて、フリーマントルなどで服役した後、恩赦を受けて1856年に釈放されました。
彼はその後、受刑者の身分改善を訴えつつ、Gwalla教会を建てました。
この教会は、宗派にこだわらず、誰もが使える教会をめざしたそうです。当時は、アングリカン、メソジスト、カソリック、と、さまざまな宗派の人々が使用したそうです。
宗派の垣根を越え、万人への救済を目指して建てられた教会でしたが・・・その後、それぞれの宗派がそれぞれの教会を建てたため、このGwalla教会はだんだんと無視されるようになってしまいました。
1922年に起きた嵐による落雷をきっかけに、少しずつ建物がダメージを受け、時を経て崩れて行き、廃墟と化しました。
過去にはこの地のシンボルとしてそそり立っていた教会の、壁の一部が、今こうして残っているのだそう。
崩れ落ちた瓦礫の向こうには、ノーザンプトン一帯ののどかな田園風景が一望できました。
なんだか、寂しいけど・・・時代というものが終わっても、自然は終わらず、そして美しい。
この雄大な自然の中では、人間の築いた一時期など、本当にはかないような気がしました。
この景色は、今回の旅行で一番気に入ったかも。
ホロックスさんは、教会を建てた翌年、1865年に死去されました。
亡骸は、敷地内の墓地に埋葬されているそうです。
壁の向こうが墓地になっています↓。
※見学自由
どの場所も、私達以外誰一人観光客がいなかったところが、面白かったですね(笑)。
さて、肝心のキャンプはどうだったか、というと・・・を次回に書こうと思います。
後篇:そして日本の歴史を思う・・・西オーストラリア中西部で過去をめぐる旅(2)